本日 最終日を迎えた「版画展」。
特別展示としてハンス・ベルメールの作品を展示しました。
好き嫌いがはっきりと二分するベルメールですが、
それは この狂気とも言える人体表現にあるのではないでしょうか。
過去にPuntoでは何度か人形展を企画したことがあるが、
”生き人形”と言われるそれらの作品は、誰もいない画廊内でも気配が感じられるくらいに
一種独特の類のないエネルギーを放っている。
それもこれも、球体関節という表現があってこその人形を超えた人形故なのである。
ベルメールが、球体関節人形界に与えた影響は計り知れない。
黒いダイアモンドのごとく・・・澁澤龍彦
ハンス・ベルメールの少女嗜好は、西欧のはるかなロマン主義の歴史の一側面を想い起させる。
私は、舞台で踊る「ホフマン物語」のなかの人工の娘オリンピアや、ベルリンのカイザー・フリードリヒ美術館にあるという、
デューラー派の画家の手になる木製の人形が、若いベルメールをして人形制作に赴かしめる動機になったという事実に、
目を止めないわけには行かない。
呪われたナルシシストの光学においては、少女は妖精であり、妖精は天使であり、人形は少女なのであって、人間そのものの
姿はついに見えないのである。神と人間との中間にあるもの、--それは天使かもしれないし、怪物かもしれないし、悪魔
かもしれないし、やさしい女の顔をした「死」かもしれない。しかし呪われた芸術家の目を惹きつけるのは、つねにつねに、
この領域より以外にはないのである。
現代では稀な「呪われた芸術家」であるベルメールは、その危険にして甘美な夢想の中から胚胎した人間哲学の展開によって、
一切の造形表現への端緒をつかんだ人物である。ジュスティーヌが一個の道徳的な人形であったように、ベルメールの人形は
一個の解剖学的なジュスティーヌにほかならなかった。
それにしても、サラーヌ・アレクサンドリアンがいみじくも述べたように、「黒いダイアモンドのごとく不安で驚異にみちた」
ベルメールの作品は、私には、「燃える理性と冷たい狂気と」を打って一丸とした、現代のエロティシズムの最高の達成の
ように思われてならないのである。