2月11日から始まった企画展「塔」には、Ramoさんに魅了された人たちがポツポツと訪れてくださる。
それは芸術に詳しい人たちが作品の批評をするために来る訳ではなく、
アートなんて見たことも興味もなかった人たちが、Ramoさんの作品に触れ、また作家を知ることで起きた
自身の価値観や生き方の変化を実に楽しげに語ってくれるのである。
画廊は、本来そういう場なのではないかと思う。
作品はモノを言わないが、黙っていても作品は見事に人となりを語っている。
Ramoさんの作品をギャラリー内に置いていくと、そこにはロマンのようなものが漂う。
初めて小さな作品を観た時から感じた、言葉では上手く説明のつかない不思議な魅力でもある。
それは吹き抜ける風や雨音のような、当たり前に存在する、意味を問う必要を感じさせないモノ。
つくる行為そのものが目的であるかのように。
そつのないお洒落なものや、無駄のない洗練されたものは、確かにセンスが良くて綺麗なのだと思う。
しかし惹き付けられるのは、どこかそういうものとは対極にあるエネルギーのような気がしてならない。
また、作品の要素としてあるのが、朽ちること。
(と言っても、壊れやすいという意味では全くない)
もっと言えば形さえ変わっていくことを止めようとはしない。
陶を扱う作家にとって、破損という概念は常に付きまとう。
焼成の段階で割れてしまうこともあれば、購入後に欠けさせてしまうなんてこともある。
ほとんどの場合、その段階で破損品になってしまうし、実際にそう見えてしまう。
けれどもRamoさんの場合は、物はいつしか朽ちて様相が変わっていくもの、
そうなるように予め形成しているとも思う節があり、
Ramoさんの作品を求める人たちは、むしろそういう未完の物質みたいなものこそ欲しているように見える。