昨年6月、Puntoでは初めてとなる椎名寛さんの個展を開催した。
一年後の今年6月に予定していた二度目の個展「その頃、僕は生きていますか?」展。
「その頃、僕は生きていますか?」展は、新型コロナの影響で延期となり、数か月を経て「生贄展」として開催する運びとなった。
生きていた後の生贄、いずれにしても命からがらの企画展であることは間違いない。
この歳になると一年なんてあっという間に過ぎてゆくが、この一年はうんと長かった。
昨年の椎名さんの個展ではスーマーさんとのライブも行って、密だったあの頃をしばし回顧した。
今年に入って作家さんと顔を合わすことも減り、まして遠方の作家となると次から次へと会えない事由が増えた。
そんな中、遠くから作品を積んで車でやって来てくれたのが椎名さんである。
前日にやってきた椎名さんは昨年同様の笑顔でホッとした。
さて、今回の作品であるが、今展はピアノの発表会を舞台にした作品シリーズと、抽象表現を点在させている。
順序みたいなものは作らず、どこからでも物語に入っていけるようなイメージで展示にも時間をかけた。
作品への入口としてのタイトルや、美術への扉を開放するためにも作家自身が随分と工夫を凝らしてくださっている。
それにしても、発表会の様子を しかもシリーズで作品として昇華するのは、とても難しいことと思う。
「生贄展」の前半の会期中は、そんなことを考えながら毎日作品を眺めていた。
最新号の季刊誌「Punto press」vol.4では、陶芸家へのインタビューを行った。
その中で、作家の北井真衣さんが次のように述べている。
作品は日常会話のようなもの。
発掘調査で出てくるような器のかけらから、当時の生活様式や風景などが想像できる。
後世の人が見返して当時(今)のことを想像できるように、今を描いていたい。
これは、あくまで陶芸家 北井さんの言葉であるが、
ある種、椎名さんもどこかそんな意味合いもあり自身の目に映る日常や風景を描いているのかもしれないなと、そんなことを思ったりもした。
あくまで勝手な想像である。
表現とはどこまでも自由なのだから、何に美を見て何を残すかに制限も枠もない。
私の場合、最初に作品を観た時の自分の感覚を大切にしている。
小難しい美術云々なんて考えずに、頭も心も空っぽにして、
理屈抜きの好き嫌いで以て、人の意見なんてそっちのけで、まずは感じてみるのだ。
その中で、あまり好みでない作品に唸らされることもあるし、逆に好きなジャンルではあるけれど さほど何も思わないこともある。
その上で、作品について、また作家の考えにも接することで、視点や考点が多様化する。
それによって自分の観かたを変える必要はない。
(もしかすると、変わることもあるかもしれないが)
必要なのは、どこか自分の琴線に触れる部分に出会える可能性があるということ。
アーティストは、表現を続ける限りその可能性を秘めていると思う。
そういう意味でも、ギャラリーで絵と出会い、作家と対話する意義は大きいのではないだろうか。
明日からまた、作品を眺めてみるとしよう。
そして、後半も作家が在廊しております。
是非、足を運んでみてください。
椎名寛の「生贄展」
後半は、10月8日(木)~11日(日)
11:00~19:30(最終日~16:30)