里 知純の「四十三歳で初めて知った事実」が季刊誌「Punto press」vol.4に寄稿されている。
何が書かれているかと言うと、図で表すとこういうことである。
「それまで「ウンコ(の全て)は食べた物の残りカス」だと信じて生きてきた私にとって、
日々排出する大便に自らの一部分がかなりの割合で含まれているという事実はかなりの衝撃であった。」
そこには、過去に排便行為に説明しがたい違和感を感じていたという内容が記されている。
また、お風呂で体を洗いシャワーで流す時にも、似たような違和感を覚えていたという追記もある。
里さんは元々彫刻を専攻していて、今展に展示されている金属やプラスチックを用いた造形作品は、
このカタルシスをテーマとして制作されたものである。
「便や垢として自分の体からその一部が排出される、あるいは剥がれていく「カタルシス」を
当時の私は違和感として捉えていたのかもしれない」と本人が記す通り、
自分の分身とも思えるおびただしい歪んだ?顔の数々によって、その塊は出来上がっている。
それは、形を留めずダラダラと流れ広がるようにも見える。
搬入の日のこと。
作品運びを手伝おうと、何気に包まれた作品をふと持った時に、ちょっとした違和感を感じた。
例えは良くないが、生き物の一部が入っているのではないかというくらいに妙に重かったことと、
その重量の割にふにゃっとしているうような、何だか持っている縁がぺりぺりとめくれそうな感覚。
思わず「壊してないですか?💦」と聞いてしまったのが、この作品である。
聞くと「端はぺりぺりめくれるように作っているので、めくれて大丈夫です」とのこと。
もちろん金属なので固い訳だが、実際にぺりぺりとめくれる不思議。
幼い頃、火傷をして水ぶくれになった皮膚がめくれ、しばらく放っておいた皮膚が
薄いプラスチックみたいに小さくぺりぺりになっていた記憶がよみがえった。
めくれた作品の破片は、正に自分の体の一部が姿かたちを変えて何処かへ吸収されるそのもののようにも思えた。
私たちの分身は日々どこへ行くのだろう。
地球上の大部分は、意外と有機的なもので覆い尽くされているのかもしれない。
ここでは紹介していないが、カタルシス以外に今回のタイトルにもなっている「想い出」をテーマに作られた作品が
ドローイングとフエルトを使った平面作品である。
異なるテーマ双方に共通するのは、作家自身の個人の意識や感情を直接的に作品に反映させているという点である。
逆に、感情を想起させるプロセスを極力排除して制作する作家もいる。
この意図は十分に理解できる。
場合によっては作品から感情なんて察してはくれないし、作品のコンセプトによって評価も実にハッキリとしている。
その背景には、言葉にならないぼんやりとした曖昧な表現は評価されないという場があるのも事実である。
ただ、これらの表現は表裏一体であろうと常々私は思っている。
そもそも何のためにモノを創造するのか?
そう考えていくと、個人感情を表現として積極的に取り入れることも評価に値すると信じている。